診療案内

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9時~12時 × ×
14時~16時 × × × × ×
18時~20時 × × × ×
整形外科
 
9時~12時 × × × × × ×
14時~16時 × × × × × 〇(※)
18時~20時 × × × × ×
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西成民主診療所レンタルきずな 〒557-0034 大阪市西成区松2-1-7 3F

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がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十九


◎ 十九、「聖護院」山伏姿で托鉢は冬の京の風物詩

 京都市左京区、岡崎公園から西へ約十分行くと聖護院がある。本山修験宗の総本山で本尊は不動明王、円珍の法脈につながり十一世紀に増誉が開いた白川房に始まるという。
 増誉は寛治四年(一〇九〇年)、白河上皇の熊野御幸の先達をつとめ、熊野三山検校職を賜り、修験道を統括した。三世覚忠のときに聖護院と号した、と由来にある。
 次郎が最初に紹介する。
 「毎年一月に信者達が修験道の山伏姿で法螺貝を吹き鳴らして托鉢・祈祷する寒中修業は、冬の京都の風物詩としてテレビでも報道されているよ」
 友子が質問する。
「聖護院の受付けで『近畿三十六不動尊霊場』の一覧表をもらったのだけど、『お不動さん』と親しまれているのに、恐ろしい形相で表現される不動明王はどう理解すればいいの?」
 次郎が答える。
 「明王が憤怒の形相をしているのは二つの理由がある。一つは衆生のうち、仏の教えに耳を傾けようとしない、頑迷な連中を導くためだ。二つ目は仏の世界を脅かす悪や煩悩に対抗するためだ。多くの衆生を救いたい慈悲心と、仏法を守ろうとする固い決意が憤怒の形用としてあらわれているのだ、と云われている」
 友子がさらに質問する。
 「不動明王は宇宙の創造者である大日如来の変身とされているけど、釈迦の仏教ではそういつた『絶対神』を認めていないのではないの?」
 次郎が答える。
 「釈迦が亡くなって数百年がたっと、釈迦の教えとはかなり異なるかたちで『だれわれを助けてくれる不思議な力があり、それが多くの者を救い上げてくれる』という思想『大乗仏教』が生まれた。今の日本の仏教は全て大乗仏教だよ」
 友子が問いかける。
 「次郎ちやんはどう思うの?」
 次郎は少し考えて、こう答える。
 「僧侶になり苦行しなければ救われないという小乗仏教では社会が成り立たないよ。物事は発展変化していく、諸行無常は仏教の教えの根本だから、大乗仏教で何ら矛盾はないと思うよ」
 「最後にちよつとびっくり情報。京都みやげの焼菓子として有名な『聖護院八ツ橋』は筝曲をきわめた八橋検校を偲び琴のように反った短冊形の菓子を『八ツ橋』として、検校の墓がある黒谷に近いこの地で売ったことに始まるという」
 友子は「それは知らなかった」と驚く。
 次郎が続けて説明する。
 「この際、お寺の種類を分類すると、五つに分けられる。一つ目は、故人や先祖の法事や墓参りに関するお寺の『檀家寺』。二つ目は、現実の困難や災難がなくなることを祈願する『信者寺』。三つ目は、観音菩薩や不動明王など特定の仏を祀る大規模なお寺を『霊場寺』。四つ目は、建立が古く、歴史的に貴重な建物、仏像、仏画などが伝わって、その文化的な価値が人々の関心を集め、拝観料をもらって経営する『観光寺』。五つ目は、僧侶の修業だけでなく 一般の人々の短期修業(座禅や写経)を認める『修業寺』。どうぞ参考にして下さい」
 友子は「それは、それは参考になりました」と手を合わせてお辞儀をした。
 日が暮れた帰り道、友子が話題を変えて尋ねる。
 「お兄さんは元気?」
 次郎が広場で遊ぶ子供を見て、思い出したようにこう言った。
 「兄の施設に学童保育所から子供たちが遊びに来てくれて、入居者のみんなが喜んでいたそうな」
 友子が心を込めて「いいね」と相槌を打つ。
 次郎が感慨深く「じんとくるね」と言いながら、朗らかな表情を見せた。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十八


◎ 十八、誓願寺に「西鶴の墓があった!」

 今日の二人の史跡巡りは、大阪市中央区上本町四丁目の誓願寺に来ている。
この寺に墓がある井原西鶴は、近松門左衛門や松尾芭蕉と並び、元禄時代に町人世界を写実的に表現し、明治以降の作者にも強い影響を与えた浮世草子作者である。また、俳諧師でもあった。
 西鶴の墓が世に知られたのも、西鶴に傾倒していだ明治時代の文人幸田露伴が、境内の無縁塔にまじっていたのを発見したことが端緒になっている。
 井原西鶴(寛永十九年・一六四一年)は大坂の富裕な町人であった。
 しかし、「僧にもならず世間を自由にくらし」と当時から云われていたように、単に楽隠居ではなく、町人社会からもある程度自由に生きて、愛欲と金の世界を描きだした。
 今日は友子から会話を始めた。
 「西鶴の最初の浮世草子『好色一代男』は、江戸で松尾芭蕉が『風雅』を求めて新しい動きを始めたことに対して、西鶴は『転合』精神で新しい世界を開いたのね」
 次郎はそれに答える。
 「一代男は『源氏物語』の滑稽化であり、好色の英雄・世之介を生み出した。世之介は九州から奥州まで遍歴して、地方の性風俗・売春風俗を誇張、滑稽化しながらもリアルに哀れにとらえている」
 友子も負けじとこう話した。
 「一方で、島原・新町・吉原という三都の遊里での恋を、実在の吉野太夫をモデルにして描きだしている。実説によれば、吉野は富商灰屋紹益に千三百両で身請けされ、寛永八年に退郭し灰屋紹益の妻となったけど、謙虚な人柄だったらしい。京都市北区の常照寺には吉野が寄進したと伝わる赤門があり、墓地に夫婦の墓があるのね」
 「西鶴はその後、『諸艶大鑑』『好色五人女』『本朝二十不孝』『好色一代女』、説話物として『西鶴諸国ばなし』『懐硯』、町人物として『日本永代蔵』『世間胸算用』がある」
 「西鶴の方法には、記録映画の手法に近いものがあり、小道具を拡大して貧民街の生活を浮かび上がらせるなどリアルさがある。矛盾に満ちた現実を、悲喜劇的にたくましく生きていく庶民のエネルギーが支えになっているのね」
元禄六年(一六九三年)、西鶴は五十二歳でその生涯を閉じたが、その年の冬、門人が遺稿集「西鶴置土産」を出版している。
 辞世の句は「浮世の月見過ごしにけり末二年」、最後の病床で西鶴は、この置土産を書いていたのであろう。

 帰り道、次郎はお決まりの近況報告を行った。
 「私は、最近『認知症の人のつらい気持ちがわかる本』を熟読しているよ。理解すれば寄り添い方と介護のコツが見えてくる、と書かれているが、納得だね」
 友子は明るい表情で「次郎ちゃんは何でも積極的に取り組むからえらい!感心するよ」と優しく手を叩いた。
 「なんで俺が…と、被害者意識だけでは心身共にもたないから、自衛の策だよ。友ちやんと史跡巡りでストレス解消も出来るし、本当に感謝しているよ」
「私の方こそ、ありがとう。今まで知らなかったことが、毎回のように理解できてびっくりの連続。これからもよろしくね」
「こちらこそ、ではまたね」
 次郎は頭を軽く下げ、電車の改札へと向かった。

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 十五

◎十五、江戸の世界に誘う草津宿本陣

 今回の場所は次郎が今、認知症の兄の介護で住み着いている草津にある「草津宿本陣」。
 友子に「歩いてきたの?」とひやかされた次郎は「いや、草津線を一駅だけ乗ってきた」と答えた。
 さっそく友子を我草津駅から歩いて十分の本陣へ案内した。
 説明書にはこう記されている。
 「江戸時代街道沿いに、大名・公家・幕府役人などの宿泊旅館である本陣を中心にさまざまな施設が集まっていた。草津宿も東海道と中山道が合流する交通の要所。本陣ニ軒・脇本陣ニ軒・旅籠七十軒余りを構え、多くの旅人で賑わっていた。本陣屋敷は建坪四百六十八坪を有し、桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなる。表門をくぐると左手には番所が置かれ、中央に式台を持った玄関、その先には長い畳廊下が延びている。そして畳廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する部屋及び主客専用の湯殿や上段雪隠を配している。屋敷裏手には、厩、土蔵、避難用門があり、屋敷の周囲にめぐらされた高塀や堀などが広大な敷地を護っている」
 二人は案内書の示すようし時間をかけて見て回った。本当に江戸の世界に入っていくような気がして、次郎はおもしろさを感じていた。
 「こんなふうにほぼ昔のままで残っているのは全国でもあまり例がない。江戸時代の参勤交代には本陣は無くてはならないものだった」
 友子は「参勤交代って正確にはどういうことなの?」と次郎に聞いた。
 「江戸時代の大名の数は二百七十位。関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えて大名になった、五万石以下の譜代大名が多かったけど、大・中の大名もかなりいた。それらの大名統制のために、一定の期間諸大名を江戸に参勤させた制度のことだ」
 次郎は続ける。
 「一六三五年(寛永十二年)武家諸法度の改正で制度化された。多くは在府・在国一年交替が原則。同時に大名は妻子を人質とすることになり、道中の費用や江戸屋敷の維持などの膨大な出費に悩まされた。幕府にとっては大名統制策として有効であったんだ。一方、経済機構の整備、文化の全国交流、江戸の繁栄など諸方面に大きな影響を与えた。一八六二年(文久二年)幕政改革の一つとして大大名は三年に一年、他は三年に一度百日在府と改正したけど、このことによって幕府の大名統制は緩んだんだ」
 友子は次郎に疑問を投げかけた。
 「ニニ七年間もやっていたのはすごいね。大名行列に何か規制はなかったの?」
「参勤交代で大名が江戸と国もとを往復する基準は、武家諸法度で百万石以下二十万石以上は二十騎以下と規定した。しかし、実際にははるかに大規模で、多い場合は数千名、少なくても百名以上。諸藩は威を張り見栄をかざつたんだよ」
 友子は続けて「幕府は大名が浪費して潰れるのを待っているのね。それにもう幕末近しではないの?」と聞いた。
 「この年だけでも坂下門外の変、寺田屋騒動、生麦事件:.大政奉還、徳川幕府崩壊まであと五年だからね」
 友子は頷きながら本陣の柱にそっと手を添えた。

 二人は草津宿本陣から少し離れた商店街を歩いていた。
 今日の帰り道も友昨は次郎の兄を気にかけた。
 「その後お兄さんは?」
 次郎は思い出したように話し始める。
 「以前は兄もこの商店街に自転車で来ていたらしいけど。最近はスーパーで目覚まし時計を五台も買ってきたよ」
 友子はびっくりした表情で「安かったから配るつもりかしら」と眩いた。
 次郎は微笑みながら友子に「またね」と挨拶し、友子も手を上げてそれに答えた。

大腸がん検診&胃がん検診を受けよう!

西成民主診療所では、がん検診を推進しています。

1月~3月はがん検査を受けましょう!

理由、がんは遺伝だけではありません。生活習慣とも密接に関係しています。特に食品の欧米化で、胃がんや大腸がんの消化器系がんが増えています。

是非ともこの機会にがん検診を受けましょう!

胃がん検診は、50歳以上の男女 胃部エックス線検査(バリウム)

※年1回大阪市民は補助あり。2024年4月以降で受けておられない方が対象。他院で胃の検査をしている方は対象外。

大腸がん検診 40歳以上の男女 便潜血検査

※年1回大阪市民補助あり。2024年4月以降で受けておられない方が対象。他院で大腸の検査をしている方は対象外。

ご希望の方は西成民主診療所まで 06-6659-1010

 

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第53回

◎法住寺ー大石内蔵助も詣った身代不動尊

 京都は三十三間堂の東にある法住寺は、後白河法皇の院政の舞台「法住殿」の後に建てられた。本尊は身代不動尊。討ち入り前の大石内蔵助も参拝したという。
 「身代わり」とは後白河法皇が法住殿に住んでいた時、木曽の義仲が院の御所に攻め入り、あやうかったところを当時の天台蔵王、明雲大僧正が身代わりとなって、後白河法皇は難を逃れることができた」と伝えられていることによる。
 「山科に身をひそめて、江戸の吉良邸への討ち入りを計画していた内蔵助が、わざわざ一体何を…。友ちやんはどう思う」と次郎。「やはり、自分らに代わって吉良をこらしめてほしいと、率直にお願いしたのではないの」
 「天災もあれば急病もあるしね。内蔵助は仇討決行による悲惨な結末を予想して万が一の身代わりをすがったのか…」
 赤穂浪士が吉良邸へ討ち入ったのは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の深夜、世間に悟られないよう、バラバラの服装でバラバラに集まってきて、表門と裏門に分かれて侵入。時代劇にあるような、かっこうのいいものではなかったのです。
 「戦争中に小学校で忠臣蔵が戦意高揚に使われて、四十七士の名前の暗記などやらされた」「学童疎開や空襲、もう絶対いやね」

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年11月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第58回

◎広隆寺ー国宝第一号の弥勒像で有名

 嵐電嵐山本線の太秦広隆寺駅前にあるこの寺は、京都における最も古い寺院のひとつで、日本書紀によると、大陸からの帰化人である秦河勝が推古11年(603)に新羅、任那の両国から送られた仏像を祀ったのがはじまりだという。
 その後、弘仁9年(818)と久安6年(1509)の二度にわたり建物が焼失し、現在のものは永承元年(1046)に建てられた講堂が最も古い。
 霊宝殿にある本造の宝冠弥勒菩薩半珈思惟像は飛鳥時代の作といわれ、その日本的な徴笑に魅せられたのか、1970年ごろにいち高校生によつて右手指を折られてしまった。
 この寺には同じく、もう一体の今にも泣きだしそうな弥勒菩薩があり宝髻弥勒とよばれている。
 今は寺の隣に、日本映画発祥の地ということで、東映太秦映画村が昭和50年に開設され、時代劇の世界を体験できるテーマパ—クとして、さまざまなイベントが行われている。
 「霊宝殿での守衛さんが少し厳しく感じたのは、過去にそんなことがあったのだね」と次郎がつぶやく。
 「太秦は秦氏によって平安京以前から開かれていた。レトロな嵐電で嵐山を正面に見据えながら、寺社を巡るそぞろ歩きも」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年5月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 新刊本 七

◎廬山寺は「紫式部邸阯」にある

 廬山寺の沿革にはこう記されている。
 「廬山寺は京都御所に隣接しており、それは鴨川の西側の堤防に接しており、明治維新までは、宮中の仏事を司る寺院四ヶ寺の一つであった。明治五年九月、太政官布告をもって総本山延暦寺に付属する。昭和二十三年園浄寺として元の四宗兼学の道場となり、今日に至る」
 元々この地は、紫式部の曾祖父の中納言藤原兼輔から伯父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅である。紫式部は百年ほど前に兼輔が建てた『古い家』で一年の大部分を過ごしていたといわれる。
 この邸宅で藤原宣孝との結婚生活(二年で死別)を送り、一人娘の賢子を育て、日本文学史上の傑作といわれる『源氏物語』を書き上げたのである。
 地下鉄今出川駅を上がれば、同志社女子大の前に出る。若い学生たちが立ち止まったりしている中を、八十歳の次郎と友子がいそいそと紫式部邸址に向かう。何となく華やいだ気分になってくるのは健康的に良いことではないか。
 「紫式部はこんな御所に隣接した、京都のど真ん中で暮らしていたとは知らなかった。源氏物語は石山寺で書いていたのではないの」と、次郎。
 「あれは伝説であり、もしあったとしても一時的なものでしょう」と、友子も興味ありげだ。
 お寺の中にも紫式部色は強く、庭も「源氏庭」と名付けられている。
 友子は次郎に近付いて小声で「紫式部は藤原姓であり、夫亡き後宮仕えをすすめ、その紫式部の文学生活を物心両面にわたり援助をしたのも、時の最高権力者藤原氏だったのよね」と話す。
 「当時紙なども高価なもので強力なスポンサーなしでは本は出せない」と次郎は答える。・
 友子は重ねて「ではなぜ本の題名を『藤原氏物語』にしなかったのだろう。藤原氏のライバル源氏の宣伝をなぜしてやるの」と疑問を投げかける。
 「そこが歴史のおもしろさなんだ」と次郎は友子に顏を寄せて語る。
 「『源氏』とは、天皇の次男ニ二男で天皇を継げなくて臣下になった場合に付けられる名前だが、事情が変わってその後天皇になるかもしれない立場なのだ」
 次郎はつづける。
 「一方、藤原氏はいくら権力を独占しても、代々娘を天皇に嫁がせて天皇の母にはなれても、天皇にはなれない立場。そこで源氏をことあるごとにイメージダウンさせておかなければならない」
 「それで?」と友子も乗り出す。
 「友ちゃん、源氏物語の主人公・光源氏をどう思う?」
 「おんなたらし。女性を次々に悲惨な目に遭わせていく。しかも、政治家なのに庶民の暮らしなどには全くの無関心」と友子。
 「こんな国民にとっては百害あって一利なしの家系が源氏なんですよ、と『源氏物語』は藤原氏の思惑を十二分に伝えてくれている」
 「紫式部は利用されたのね」と、友子は少し淋しそう。
 次郎はそんな友子を見て、小さく首を振った。
「いや、大変な页斤の中で紫式部は鴨川の流れを見つめながら、自分しか書けないものを後世に残したのではないか」
 二人が紫式部邸址を後にして歩いていると、次郎は思いついたように言った。
 「今出川駅で認知症の兄の好物、鯖ずしでも買って帰るわ」
 友子はそれを聞き「私もそうしょう」と頷いた。
 「またね」と二人、鯖ずしを手に持って別々に歩き出した。

・大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 未収載

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第54回、第55回

◎石清水八幡宮と「荒城の月」

 京阪八幡市駅前の道を南に約三分歩くと、今日の行先である石(いわ)清水八幡宮の一の鳥居に到着する。
 駅前から登山ケーブルが運行されているので、高齢者の二人には大いに助かる。
 由来にはこうある。
 「石清水八幡宮は男山(一四二メートル)の頂、鳩ケ峰から谷を挟んだ東尾根に座し、山全体が境内である。応神天皇・神功皇后・比咩大神の三柱をまつり、官幣大社であった。都の裏鬼門である西南を守護し、伊勢神宮につぐ国家第:の宗廟、国家鎮護の神として崇敬されてきた」
 「社伝によれば、ハ五九年(貞観元年)に奈良大安寺の僧行教が豊前の宇佐八幡宮で神託を受け、清和天皇の命により神殿六棟を男山に造営し、実権は行教の出身氏族紀氏が握らこととなった。明治維新まで僧による神前読経が行なわれ、神仏混淆の当時にあってもきわめて仏教色の強い神社であった。江戸幕府の庇護により江戸中期には四十を超える坊舎が立ち並び、壮観な宗教景観を有していたが、一八六八年(明治元年)の神仏分離令により残っていた二十三坊全て廃絶し、山内景観は一変した」と。
 由来を見て、友子が反応する。
 「灯が消えてしまった。明治維新政府のやつた事なのね」
 次郎が答える。
 「日本に仏教が入ってきた時には神道との争いがあったが、背景は政治の問題なので、奈良時代には仏教信仰と固むの神祇信仰信とを融合調和する神仏混淆説か唱えられ、仏菩薩がけ日本では仮に神の姿で現われる。阿弥陀如来は.八幡神、大日如来は伊勢大神と考えられるようになった。しかし、江戸時代国学の隆盛につれ、仏教的要素を神道から除き、神道の優位性を強調する運動が激しくなり、 ついに明治維新には排仏希釈<ママ 廃仏毀釈?>まで進んだのだ」
 友子が驚く。
 「打ち壊しのことね」
 次郎が続ける。
「一八六八年(明治元年)ー」)]の神仏判然令により、神官・平田派国学者らを中心に、神仏分離、神社における仏堂・仏像・仏具などの破壊や除去が各地で行われた。これに対して、排仏反対の民衆の動きや、信教自由の主張が高まり、その後信教自由の保護が各宗に通達された。しかし、この運動により政府は政治優先の思想を普及させることができ、その後の侵略戦争に宗教界を全面的に駆り出すことができるようになった」
 友子は「恐ろしい歴史があるのね。だから政治と宗教の分離は絶対に必要なのね」と納得した。
 次郎が頷く。
「この男山を登るといつも『荒城の月』が歌えてくる。なにか落城的な感じが…」
 友子が驚きつつ言う。
 「神社内には『エジソン記念碑』があって、トーマス・エジソンが男山付近で採取された真竹でフィラメントをつくり白熱電球を完成させたことを記念してー九三四年(昭和九年)に造立されたと、びっくりね」
 「今日も勉強になったわ」と一日の感想を話していた友子だが、やはり最後は次郎の介護について思い遣った。
 お兄さん、認知症の進行はあるの?
 次郎が答える。
 「夜間不穏症状が出ているのか、夕方から不機嫌になる傾向が最近よく見られるんだ」
 友子は心配そうに「疲れがたまってくるのではないの?」と返した。
 「それもあると思うけど…」
 少し暗くなった次郎に、友子が明るく言う
 「次郎ちゃんは夜間陽気症状で対抗して!」
 次郎は友子のジョークに笑いながら「それはもともとあるので…」と答えた。
 今日も明るい表情で、手を振る二人であった。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2020年12月号 大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年1月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第57回

◎京都屈指の絶景を舞台からー清水寺

 清水《きよみず》さんと親しまれ、桜も紅葉も、雪景色も、新緑や若葉のころも観光客がたえない。
 国宝・重文建築がずらりと並ぶが、とくに「清水の舞台」は有名。
 坂上田村麻呂が延暦十七年(七九八)に創設した観音霊場で、西国三十三ケ所十六番目の札になっている。
 音羽山中腹にあり、山中から湧き出す名水がその名の由来。釘を使わず、柱を縦横に組む舞台造で支えられている本堂には、本尊の千手観音像が、秘仏で一般公開はされていない。
 門前町の坂を上りつめると仁王門、その右に八脚赤塗りの西門、左前に馬駅や鐘桜がある。門を入ると三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂が並ぶ。以上はすべて重文で、さらに本堂の舞台から正面に望める子安塔、東に音羽山を背にした釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院など計十五塔の重文建築がある。その大半は江戸時期に再建されたもの。
 山腹だけに展望のよさも魅力。京都市街のほぼ南半分が見渡せ、愛宕山を盟主にする西山連峰も一望できる。
 帰路は三年坂から二年坂、八坂道を下ると八坂塔、法観寺の五十塔で、高い建物の少ない頃は市中からよく見えた。
 「清水寺はいつか時間をかけてまわりたい」と次郎。「足が動くあいだに」と友子。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年4月号収録

がもう健の郷土史エッセー集目次

がもう健の〉次郎と友子の「びっくり史跡巡り」日記 第56回

◎法起寺ー小さなお寺に大きな望み

 長谷寺の門前町に、隠れ寺の風情である法起寺は、西国三十三ヶ所巡りの創始者という伝説を持つ徳道上人を祀っている。
 徳道上人は長谷寺の開基でもあり、ここを晩年の穏棲地にした。長谷寺の門前町にある小さな番外札所だが、西国霊場の歴史のなかでの存在感は大きい。
 本堂の右に納経所があり、奥に徳道上人の供養塔という十三重石塔が建っている。
 実は、徳道上人は官僧ではなく、庶民信迎のリ一ダーともいえる私度僧だった。高級官僚へのさそいをけって、民間で押し通した徳道上人の生きざまは、庶民のあこがれの的であったはずである。
 そんな徳道上人は伝説によれば、一度病死した。あの世で閻魔大王に会い、衆生済度のため三十三の観音霊場をひろめよと宝印を授けられ、息を吹き返した。
 それから西国巡礼の宣伝に努めたが、思うようにはならなかった。後に花山天皇が西国巡礼を再興した。
 徳道上人が庶民信仰を説き、それが盛んになることを念じたのは疑いない。
 「徳道上人は何か後世のー休さんに通じるものがあるね」と、次郎。
 「小さなお寺に大きな望み」だね、と友子。
 「今日は一日で、長谷寺と法起寺のニケ所もまわれて良かった」と、二人。

大阪きづがわ医療福祉生協機関誌「みらい」 2021年3月号収録

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